2月19日の朝、街の空気が
音を立てて変わるのを肌で感じた。
ラマダンの始まりだ。
夜明け前の礼拝「ファジュル」から
日没の「マグリブ」まで、
彼らは水の一滴すら口にしない。
食事も、コーヒーも、煙草も。
かつて預言者ムハンマドに
神の言葉が降りてきたというこの神聖な月を
彼らは特別な心持ちで迎える。
人は空腹に身を晒せば
自らの無力さを思い知る。
万能ではない自分を認めるとき
人はようやく、目に見えない大いなる存在に
思いを馳せるのだという。
食べられない苦しみを知ることで
常に飢えの中にいる人々の痛みを分かち合い
自らの内にある衝動を鎮める。
空腹に苛まれながらも、
怒りを抑え、自らを律するその姿は
静かな修行のようにも見えた。
ラマダンに入る数日前にこの国を訪れた僕には
その景色の変貌がよくわかる。
本来、チュニジアの朝は
カフェの一杯のコーヒーから始まる。
けれど今、街角のカフェは固くシャッターを閉ざし
あるいはこの機を捉えて改装の槌音を響かせている。
午後三時を過ぎれば
家路につく人の姿が多くなる。
四時を過ぎる頃には、
地方のシャッター通りのように
人影が消えていく。

その中で唯一、パン屋の前にだけは
バゲットを求める人々が長い列を作っていた。
五時に行けばもう遅すぎる。
バゲットを買いそびれた人々が
獲物を探すように車で
パン屋を巡る姿がそこかしこにあった。
そして六時過ぎ。
マグリブの合図が響き渡ると
世界は嘘のように静まり返る。
車の音は途絶え、人々はそれぞれの場所で祈り
最初の食事「イフタール」を囲む。
街は深い静寂に包まれる。
しばらくすると、ようやくカフェが再び灯を灯し
断食を終えた人々が
三々五々と集まってくる。
街が表情を取り戻していく。
経済合理性や効率を優先する社会で
生きてきた僕にとって、
この一ヶ月は一見、無駄な停滞のようにも見える。

けれど、立ち止まることでしか見えないものがある。
慈しみを持って、今ここにある幸せを噛み締める。
そんな「生」の根源に触れるために、
彼らはこの不自由を受け入れているのではないか。
この時期にチュニジアを訪れたのは
決して偶然ではないような気がしている。

今日のトップの写真は、チュニス大聖堂の司祭に
モレスキンのノートへ言葉を綴ってもらったときの一枚だ。
フランス保護領時代の象徴であるこの建築は
ムスリムが大多数を占めるこの街のど真ん中に
今も厳重な警備に守られながら立ち続けている。
圧倒的なアウェイの中で
それでも静かにそこに在り続ける姿に
歴史の波風を超えた
ある種の力強いエールを送りたくなった。
