旅先で迎える朝は、いつも早い。
窓の外が白んでくると、気持ちが焦ってくる。
街が起き始めた美しい風景を見たいと心が騒ぐからだ。
朝の光がこれほどまでに美しいのは、
それが一日の始まりを告げるだけでなく、
今日という日の物語を予感させるからかもしれない。

チュニジアの朝は、カフェから始まる。
日本では誰もが効率を優先し、
一分一秒を惜しむように職場へと急ぐ。

しかしここでは、
人々はまずカフェで一杯のコーヒーを囲み、
言葉を交わす。

庶民的なカフェで声を弾ませる者もいれば、
ビジネス街ではネクタイを締めた人々が、
まるで朝の会議をしているかのように熱心に話をしている人もいる。
彼らは一体何を、これほどまで熱心に語り合っているのだろう。

毎日繰り返される光景の中に、
タバコの煙のように無数の言葉が立ち上る。
少しでも早く目的地に着こうとする僕にとって、
この「立ち止まる時間」を持てる彼らの心の豊かさは、
眩しいほどに羨ましく感じられた。

足は自然とメディナ(旧市街)へと向かう。
スーク(市場)はまだ眠りの中にあって、
想像していたよりもずっと道幅が広く感じられる。

いい光はないか、いい出会いはないかと
迷路のような路地を奥へ、さらに奥へと進むうち、
私は自分がどこにいるのか分からなくなる。


二度と同じ場所には戻れないのではないか、
そんな心地よい不安に包まれながら歩いていると、
ふいに白と青の静謐な建物が現れた。

大学病院の施設だという。
歴史ある住宅街の中に、
人々の「生」を支える最先端の施設がある。

メディナの道は、歩いていて飽きることがない。
細い路地をバイクが走り抜け、
カートで荷を運ぶ男たちが
人混みを鮮やかにすり抜けていく。

足元に目を落とせば、石畳の角は取れ、
ツルツルと磨かれている。
長い年月、無数の人々がここを通り過ぎていった
その確かな時間の堆積が、
石のひとつひとつに宿っている。

時代の生き証人のようで、
一つの石を撫で回してみた。

昼前になると、静かだったメディナは
一変して喧騒の渦となる。
道沿いに商品がせり出し、
道幅が変わったかのように店が膨れ上がる。

しかし夕刻、魔法が解けるように店じまいが始まると
棚もフレームもすべてを解体し、
店の中に仕舞い込むのだ。

毎日、一時間以上もかけて組み立て、
また元通りにする。

その無言の繰り返しの中に、
この土地に根ざした人々の「営み」の美しさが
宿っているように思う。

街の中にゴミは多いけれど、
どこか清々しい光景だった。


明日から、特別な月が始まる。ラマダンだ。

朝五時半、まだ夜の闇が深い頃に響く「ファジュル」の礼拝から
彼らの長い一日が始まる。

朝の儀式のようなコーヒー、食事、タバコ、水すらも口にしない過酷な断食。
日没を告げる「マグリブ」の合図とともに、
ようやく「イフタール」という祝祭のような食事が始まるのだという。

日中、大好きなコーヒーも煙草も断たれた人々は、
空腹からイライラを募らせ、
街のあちこちで小競り合いが起きることもあるそうだ。

しかし、それさえもラマダンがもたらす人間味あふれる風景のひとつということなのか。

欲望を抑え、精神を研ぎ澄ます月。
その静寂と熱狂の狭間で
チュニジアの人々がどのような表情を
見せてくれるのか。

僕はその新しい風景に出会えることを
楽しみにしている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください