折りたたみ自転車と列車でスリランカを巡った45日

<キャンディ>

ここは、キャンディで行われたエサラ・ペラヘラ祭りについて紹介するページ。しかし、キャンディには思い出が多く、ペラヘラ祭り以外のことも紹介したくなりました。項目が減るのはよくないけれど、増えるのは多めに見てください。

■キャンディ概要
石窟寺院で有名なダンブッラを後にして、キャンディまで坂道をのぼってきた。この町の標高はおよそ500m。そのため、気温は20度前半くらいと過ごしやすい。ここが南国であることをついつい忘れてしまいそうになる。町はコンパクトで一日もあればひと回りできてしまう。自転車で回ると、少し大雑把になりすぎてしまうようで、滞在中は自転車を使わずなるべく歩くようにしていた。ぼくにとって移動するスピードはとても重要だ。スピードがあがるほど、リアルさが薄らいでいく。空気感や匂いも希薄になり、の喧騒も風景に変わってしまう。だから、時間が使えるときは、なるべく歩くようにしている。

キャンディは、小さな町だけど、さらっと流すにはもったいないくらいに文化的な奥行きがある。スリランカ人にとって、特にシンハラ人にとっては、自分たちのルーツを感じる場所であり、心の故郷でもあるそうだ。

紀元前、シンハラ王朝が最初に都を置いたのはアヌラーダプラだった。そこから遷都を繰り返しながら最後にたどりついたのがキャンディ。王権の象徴でもあるブッダの犬歯が納められた仏歯寺が建立され、仏教徒の精神的中心として厚い信仰を集めてきた。しかし、1815年、300年間以上にわたり都として繁栄したキャンディは、英国の植民地支配によって幕を閉じる。人々は屈辱的な経験を味わう一方で、仏歯寺は守られ、今なお仏教徒から厚く信仰されている。そのようなことが読んだ本には書かれていた。

スリランカのなかには、ゴールやヌワラエリヤなど、植民地時代にコロニアル調のまちづくりが行われ、今なおその名残が色濃く残っているところもある。キャンディはそれらと比べると、古都の風情がありスリランカらしさを感じる町だ。ホワイトブッダが鎮座する高台に昇ってみると、周囲を山に囲まれていることがわかる。それは、町がこれ以上開発され広がっていくことを拒んでいるようにも見える。環境は人の性格を育むのだろうか、穏やかな気候のように、人々も穏やかで柔和だ。それでいて、この町で暮らすことに誇りを持っているようにも感じられる。だからだろうか、出会う旅人にキャンディがいいという人が多かった。

キャンディ湖畔を歩いて出勤する人たち

仏歯寺に向かってお祈りする男子学生
仏教色の強いキャンディにイスラム教徒も住んでいる
えんどうを量り売りする男性
市場で荷物を運ぶ人夫
キャンディは山に囲まれた盆地

■仏歯寺
ぼくが宿をとったのは、中心部から少し離れた高台の宿。翌早朝、仏歯寺を参拝するため夜が明ける前に宿を出る。ヘッドライトを頼りに暗い坂道を下りていく。静まり返った町を中心部に向かって歩いていくとお寺の入口が見えてきた。まだ5時半なのに、すでに参拝者の行列ができている。最後尾に並ぶと、ぼくの前にいたのは家族とともにやってきた10代の女の子だった。彼女は制服を着ている。参拝が終わったら、そのまま学校にいくのだろう。感心しながら列に並んでいると、やがて本殿にたどり着いた。所狭しと参拝者が座り込み、お経を唱え、祈りを捧げている。拝む先には仏歯が納められた祭壇がある。普段扉は閉じられ見ることができないが、1日3回のプージャー(礼拝)のときだけ扉が開けられる。中にはブッダの歯が厳重に納められた煌びやかな箱があるそうだ。本堂に上がる手前で、長蛇の列ができていたのは扉の中を拝む人たちの列だった。

祭壇には茎を取ったハスの花が献花されていく。出勤前と思われる人々の姿も見られる。平日のまだ夜が明けきらないうちから、こうして参拝に来ている人たちを見ていると、祈りの対象としてだけでなく、仏教が生活に深く根ざしていることがわかる。そうして生活に組み込まれた宗教が確たるものになり、ココロの柱になっていく。信仰の柱は、自らが折らない限り折れることはない。

信じるものがあると人は強くなれる。祈る姿を見ているとそう思う。

空が明るくなってくると、学校や職場に向かう人たちは帰っていく。そして、また他の参拝者が入れ替わりで訪れる。スリランカの仏教徒にとって、仏歯寺は最も神聖なお寺の一つでありながら、キャンディに暮らす人々が通える町のお寺としても機能しているようだ。

夜明け前の仏歯寺
早朝から多くの人が参拝に訪れている
お経を唱える人、瞑想する人さまざまだ
仏教徒は参拝する時、白装束を着る人が多い
仏歯寺に繋がる通路
一言も話さず誰かを待つ僧侶と少年

■ペラヘラ祭り
スリランカでは、各地でペラヘラ祭りが行われる。なかでもキャンディのペラヘラ祭りが一番大きく、約10日間に渡って行われるそうだ。ぼくは祭りだと聞くと心が踊り出す性格ではない。どちらかというとその逆で、人ごみは苦手、行列になると大の苦手で、近づきたくもない。とも思う。しかし、せっかくのスリランカ。ちょうどキャンディに着くのがペラヘラの時期でもある。時期が重っているのも何かのご縁、そう思ってキャンディにやってきた。

早朝から仏歯寺に行き、その後はパン屋のイートインで朝食をいただく。ぼくがそう思うだけかもしれないが、キャンディは他の町に比べてやたらとパン屋が多い。ただ、どの店もパンの種類があまり変わらない。種類が少ないのだ。これはスリランカのどの町に行ってもそうだった。

午後になると、次第にお店のシャッターが閉まり始める。18時から始まるパレードのためだ。なかにはお店前に椅子を並べて特設観客席を作り一儲けしようとするところもある。夕方になると道路封鎖がはじまり、18時、花火の合図とともにパレードは仏歯寺をスタートする。パレードはキャンディの中心にあるクイーンズホテル周辺で見物する人が多いようだ。朝から場所取りをしているおばさんもいる。しかし、そんな人ごみのなかで、身動きが取れない状態で写真が撮れるはずもない。なるべく人が少ない通りを探す。

陣取ったところは、パレードのゴール地点。ここだと1列目で見られるし、ある程度自由に移動できそうだ。パレードの行列がかなり長く、スタートを待つ行列がゴール地点をはるかにはみ出して町のなかにも伸びている。楽屋をのぞいているように、皆が準備したり談笑している姿を間近で見られる。ダンサーなどパレード参加者は、全国各地から集まってきているそうだ。その数は余裕で1,000人を超えているだろう。参加する象も100頭以上。ダンサー集団の切れ目切れ目にアクセントをつけるように象が入っている。

先頭集団がスタートして数十分経つと、後方もぞろぞろと動き始めていく。最後尾が通り過ぎていき、しばらくすると、町を練り歩いてきた先頭集団が戻ってくる。長い鞭を地面に叩きつけ、大きな音を鳴らす人々、仏教旗を掲げて歩く旗持ち、火のついた車輪を回しながらアクロバティックな演技を繰り広げる人たち、土地の役人、太鼓集団にダンサーが続く。それぞれの集団でコスチュームもダンスも違う。上空からキャンディの町を眺めると、パレードが大きな竜のように見えているのかもしれない。このスケール感はなかなか味わえるものではないし、沿道を飽きさせないパフォーマンスも素晴らしい。

ダンサーたちは確かにすごかったが、それはどこか想像がつく範囲内だった。ぼくが驚いたのは、パレードの両サイドで松明を持って、ダンサーたちを照らしている松明持ちの人々だ。彼らが持つ棒の先には、運動会の玉入れのような鉄カゴが付いている。そこに燃えさかる石炭がいくつも入っている。松明持ちは全員が上半身裸。カゴの隙間からは火の粉が落ちてくる。大変な役回りだ。彼らはパレードの長さの分だけ両サイドにいて、担当する集団と一緒に通りを歩いていく。電気を使ってライトアップすれば、それで済むところを、わざわざ何百人という松明持ちが、本物の火を持って歩いている。それが、電気照明では到底演出できない古の風情を路上に蘇らせる。効率的でないように見える彼らの存在の大きさにどれくらいの観客が気づいているのだろうか。通りの先の先まで続く松明の連なりは、シンハラ人の歴史という大河を見ているようだった。

この日のために全国各地からやってきているそうだ
楽団の太鼓に合わせて踊るダンサーたち
火がついた輪っかを自在に操る演者
電気ではなく松明であることがすごい
電飾の象は100頭以上
松明持ちがいなければこの祭りは成り立たないのではないかと思う

■マハラゲ・マンジュラ・ムナシンハさん
名古屋の金山に「パハナ」というスリランカレストランがある。金山総合駅の南側にあるこのお店、以前リヤカーで東海道を旅したときに名古屋の知り合いに連れて行ってもらったことがあった。その知り合いの女性からスリランカに行くなら、パハナのオーナーさんを紹介するよと言われ、出発の2週間ほど前にパナナにごはんを食べに行った。そこで紹介してもらったのがオーナーのマハラゲ・マンジュラ・ムナシンハさん、通称マンジュラさんだ。やさしい目をしたドレッドヘアの男性。話しをしていると、彼も夏にスリランカに一時帰国する予定だという。マンジュラさんの自宅はキャンディ近郊。大まかなスケジュールだけど期間が重なっている。会えるなら是非会いましょう!と言ってもらい、LINEで繋がった。

キャンディに到着したその日の夜、マンジュラさんは、ぼくが泊まっている宿まで夕食を一緒に食べるためにピックアップに来てくれた。名古屋で出会ったマンジュラさんが目の前にいる。少し不思議な感覚だ。遠く遠く離れた場所で、人間という動物は見事に出会えてしまう。半年ぶりに帰国したマンジュラさんはどんな感覚でぼくと会っているのだろう。

僕が泊まっている宿は、マンジュラさんが通っていた高校の近くだった。宿代はリーズナブルだったが高級住宅地だそうだ。そう言えば、周辺にはインターナショナルスクールや大きな進学塾などがある。キリスト教徒のオーナー夫妻。お子さんは、アメリカの大学に留学した後、そのまま就職し暮らしているそうだ。スリランカには4つの宗教があるが、キリスト教信者は全体の約7%と一番少ない。しかし、キリスト教系の学校は、教育プログラムがしっかりしていること、英語で授業が行われる学校もあることなどから、高学歴な人が多く、政府の要職に就く人も多いと別の人から聞いた。町を住民目線で見られるとおもしろい。

マンジュラさんの車に乗せてもらい、夕食を食べに連れて行ってもらう。彼が育った町を助手席から眺めている。同じ車に乗り、同じ町の景色を見ているが、見えているものは、おそらく全然違うものだろう。彼にとっては、過去の日常の風景であり、思い出までも内包している。ぼくにとっては、初めてみる景色で、非日常の世界が展開されている。

レストランに入って、チャーハンを頼んだ。スリランカでは飽きるほど毎晩チャーハンを食べているが、マンジュラさんのオススメだけあって美味しかった。明日は、マンジュラさんファミリーが知り合いの家でランチを食べるそうだ。そこに連れていってもらう約束をして別れた。

翌日もマンジュラさんは、宿の前まで車で迎えに来てくれた。帰りは自転車で帰るからと車の後ろに積んで出発。まずはマンジュラさんのご自宅に。宿の周辺とは別の高級住宅地エリア。きれいなリビングで日本人の奥さんに、紅茶を入れていただく。イケメンの10代の兄弟は、日本語も英語もペラペラだ。紅茶を2杯いただき、一息ついたところで、みんなで知り合いの家に出発。国際結婚をした家族の会話を車のなかでそっと聞いている。そこにはマンジュラさんのお父さんとしての顔もある。たわいもない家族の会話のなかに、愛や絆を感じさせる間があったりもする。奥さんから日本人目線のスリランカ事情を聞くのも面白い。旅人はどこまでもよそ者だが、こうして町の人と触れ合うことで内側から視点を持つことができる。

知り合いのお宅に到着した。広い玄関を通り10人以上座れるような大きなテーブルがある部屋に案内された。ここはタミル人のお宅。いただくランチは当然タミル料理だ。シンハラ料理に比べてタミル料理は辛い。シンハラ料理でもそこそこ辛いので、大丈夫かなと思っていた。キッチンで作られたものが運ばれてくる。出来立てだ。食堂で食べるカレーは、ほとんどが作り置きしたもの。できたての温かさが新鮮に感じられる。まずはカレーのスープがグラスに入って出てきた。これを飲み干す。胃腸を活発にする働きがあるとか。その後も、カレー味の料理が続くが、美味しく食べられる。ピリピリと辛いが嫌になるほどの辛さでもない。食堂で毎日食べるカレーは、どこで食べても味が変わらない。それに飽き飽きしていたが、作る人が作れば美味しくいただけることがわかった。久しぶりに美味しい食事をいただいて、暮らしのぬくもりを感じると、もう少しこのままいたいなぁという気持ちにもなってくる。そう思えるほど、いい経験をさせてもらった。

タミル人の方が作られた料理。温かくて美味しかった
タミル料理はシンハラ人の料理よりも辛いそうだ
本当に美味しかった
煮込む前の野菜たち
手前のドーナツのようなものに、2種類のピリ辛ペーストをつけて食べる。美味い!

旅先で、出会える人がいると、違う空気感を味わえる。それが現地に住む人ならなおさらだ。マンジュラさんには、本当によくしていただいた。キャンディを後にして、東海岸のアルガムベイを走っているとき、一足先に日本に戻ったマンジュラさんからLINEが入った。

Japan is very hot!!!!!!!

スリランカ人が言うんだから、間違いなく日本の夏は暑い。