折りたたみ自転車と列車でスリランカを巡った45日

<スリーパーダ>

スリーパーダ。アダムスピークともいわれるこの山は、スリランカの4大宗教の聖地となっている。スリランカ人なら一生に一度は登るというほど信仰の厚い山だ。標高は2243m。天気が安定し、ご来光が望めるシーズンは12月4月と言われる。その時期は、山の中腹までお店が並び、朝日を拝むために登る参拝者たちを迎える。お店が灯す光は、山の麓から登山ルートを示すかのように、一本の線として見えるそうだ。麓から頂上までは、すべて石やコンクリートの階段になっている。その補修工事は主に若い軍人たちが担う。セメントも砂利もその他工事道具もすべて人力で運び上げ、きれいに整備がなされる。スリランカ人の信仰の山というだけあり国をあげてこの山を守るという想いが感じられる。

しかし、ぼくが登るのは824日。シーズンオフのど真ん中。とはいうものの、せっかくスリランカに来たのだから、聖なる信仰の山に登らないわけにはいかない。宿はスリーパーダの麓の村に取った。宿の人に聞くと、早い人で3時間。雨が降っていると3.5時間。休憩を入れてだいたい4時間くらいで登る人が多いようだ。ご来光が臨めるとすれば6時。気合を入れて登るつもりで宿を朝2時にスタートした。すでに雨が降っている。村を抜けてしばらく行くと明るく照らされた場所に着く。そこで記帳し寄付を置いていく。ノートに書かれた寄付の額には1,000ルピー(600700円)が多い。それにならって1,000ルピーを寄付させていただいた。そこからは、もう真っ暗な階段をひたすら上がっていく。誰にも出会わない。次第に霧が立ち込めてきて5m先が見えないような状況になってきた。幸い階段が続いているから道を間違えることはない。ひたすら登れば頂上には着く。視界が制限されて、足もとの11段をライトで照らしながら登っていくと、不思議な感覚になっていく。

8月に幼なじみの友達が亡くなった。体調を崩してから、なるべく会えるときは会うようにしていた。スリランカに出発する1週間前にも会いに行ったが、しんどそうだった。ぼくが短パン、Tシャツで家に上がりこんでいくと、開口一番「ええなぁ~、おれもそんな格好したいわ。でも、寒くてできへんわ。夏の暑い時期に寒いんやで」笑いながら、そう言った。腹水がたまり膨らんだお腹をゆすりながらソファに横にはなっているが、声にはいつものハリがあった。彼と話すのは、いつも思い出話。一緒にいろんなことをやらかした。話のネタが尽きないが、ふとしたときに、これからのこと、家族のことなどの話がぽろっとこぼれ出る。彼は会社を経営していた。そこには、自分の命と向き合い死の恐怖に怯えながらも家族のこと、会社のことを考えなければならない苦悩がある。ふと天井を見上げて、さみしそうな顔をする。「戻ってきたら、また会いに来るわ」と握手をして玄関を出たのが最後だった。

スリーパーダに登ることは、修行の一環であるそうだ。そのためあとどのくらいだろうと、人に聞いてもいけない、思ってもいけないそうだ。ひたすら念じて登る。幸いにして、真っ暗の山道に雨が降り、霧が立ち込め視界が制限された環境下だったから自分の世界に入りやすかったのかもしれない。しんどいと思わなかったというと嘘になるし、あとどれくらいだろうと考えることも度々あった。しかし、結果的には2時間で登ってしまった。

先に白人女性が一人すでに登っていたから2番目だった。まだ4時。ご来光までは2時間もある。雨と霧と汗で、着ているものはびっしょり。着替えの半袖シャツを取り出し、その上からダウンを羽織る。そしてレインジャケットを着る。それでも、かなり寒い。その後も、カップルやグループが少しずつ登ってきて、居場所に困るようなった。3040人はいたと思うが90%以上が欧米人。残りはスリランカ人が数人と日本人。ご来光など臨めるはずもないのに嵐のなか誰も帰らず、明るくなるのを待つ。そして、明るくなってやっぱりダメかと確認してから、嵐のなか来ましたという証拠写真を撮り急ぎ足で下山を始めた。ぞくぞくと降りていく。明るくなり視界が開けてきた山道を降りていくと現実世界に戻っていくようだ。

写真はほとんど撮れなかったし撮りたい気持ちにもならなかった。だけど、ココロは満たされていた。いい風景よりも、ぼくはそのことをこの山に望んでいたのかもしれない。麓に降りたころには雨はすでに止んでいた。

軒先にひしめきながら明るくなるのを待っていた

シーズン中はこの上を参拝することができるそうだ
 スリランカには日本のお寺である日本山妙法寺がいつくかある。スリーパーダの麓にもあったので立ち寄った