折りたたみ自転車と列車でスリランカを巡った45日

<ジャパニーズ・ピース・パゴダ(ゴール)>

その日はマータラからゴールを目指す予定で出発した。ゴールは世界遺産の町。かつてオランダが植民地支配をしていた時に、海からの侵略に備えて砦を築き、その内側にオランダの町を作った。そのコロニアル風の町並みに惹かれて多くの観光客が訪れる。スリランカにあってスリランカに見えない町、それがゴール旧市街。

そのゴールの手前に、ジャパニーズ・ピース・パゴダがある。ここは日本山妙法寺といって日本の日蓮宗のお寺だ。日本人が建てたお寺だから、いちおう立ち寄るだけ行ってみよう。写真だけ撮ってさっさと失礼しようと軽い気持ちで、ゴールにいく前に立ち寄った。

ゴールの町に入る少し手前で、幹線道路を海側に折れる。自転車に乗って昇れないほど急な坂道が現れて、汗だくになりながら押して歩いていく。やがて車やバスが止まり、たくさんの人が集まっている場所までやってきた。ここから徒歩で坂を降りて行くとジャングルビーチがある。そこを目指してやってきた人たちのようだ。ほぼ行き止まりのようだが、目指す日本山妙法寺はどこにあるのだろう。ぐるりと見回してみるが、見当たらない。小さなお店があったので聞いてみると、すぐそこだと指をさして教えてもらった。その方向へ進んでいくと、仏舎利塔が見えてきた。想像していたよりもかなり大きい。塔の一番先までいれると、7〜8階建てのビルくらいあるのではないだろうか。塔のまわりには回廊が2段に設けられていて、ぐるりと回ることができる。

お寺に入ると大きくて立派な仏舎利塔が迎えてくれる
仏舎利塔の横に本堂がある

参拝者や観光客もいる。自分もその一人として靴を脱ぎ、仏舎利塔を一周した。眺めのいい場所で、対岸にはゴールの旧市街がかすかに見える。隣の本堂へ移り手を合わせてお祈りをした後帰ろうとすると、スリランカ人のお寺のスタッフに呼び止められた。

「日本人ですか?」と英語で聞かれた。「はい、そうです」と答えると、「あさみを知っていますか?」「会いたいですか?」と聞かれたので、「はい!」と答えると、「ここで待っていてください」と出ていかれた。アサミ?なぜ、日本人女性が、このお寺にいるのだろう。このお寺は大乗仏教だから、それほど戒律にやかましくないのだろうか。尼僧ではないのかもしれない。仏教好きの旅行者かもしれない。そんなことを思いながら待っていた。しばらくして「ようこそ、いらっしゃいました!」と現れたのは、尼僧でも女性旅行者でもなく浅見上人という男性の僧侶だった。女性だと思い込んでしまっていたので、多少のがっくり感はあったが、日本語が通じるうれしさが、その気持ちをかき消してしまった。

「お茶でもどうですか?」そういって部屋に招き入れてもらった。浅見上人は、学校を卒業してから、3年間バックパッカーとして世界中を旅されたそうだ。バックパッカーという意味では、ぼくの大先輩。話が面白くないわけがない。世界を巡るなかでアフリカを終えた後、インドに船で渡られた。その時に、運命的な出会いがあったそうだ。日本山妙法寺の開祖、藤井日達上人との出会いだった。藤井上人の説法を聞いた浅見さんは、この人はすごい!と心からの感動を覚えたそうだ。旅が終わり、日本に戻られた後は、会社員として働くことになる。ある時、藤井上人が日本に戻ってこられるというので再び話しを聞きにいかれたそうだ。その時に、ーやっぱりこの人はすごい!一度の人生、この人のように命を燃やして生きてみたいー そう思い、会社を辞めて日本山妙法寺に出家された。浅見上人は「その時、宗教のことなどは、どうでもよかったんです。ぼくは藤井日達という男に惚れたんです」そして、こう付け加えられた。「お釈迦さまもきっとそうだったんだろうと思います。教義云々の前に、お釈迦さまに惚れて、お釈迦さまのように生きたいと願った人たちが集まって、やがて教団になっていったんじゃないかな」その通りだと思った。

いくら素晴らしい教義を唱えても、その人に魅力がなければ人は集まってこない。逆に、たいしたことがない教義でも、その人に魅力があれば人は集まってくる。そんなことをシンプルに言ってくれる浅見上人にぼくは感動を覚えた。

「よかったら、今日泊まっていきませんか?」まだまだ話が聞きたかったぼくは、申し訳ないと思いつつもありがたく泊めていただくことにした。

アサミと聞いて女性だと思ってしまった浅見上人

夕方の御勤めまでは自由時間。境内を散策したあと、本堂に戻ってみる。すると、入口で先ほど浅見上人さんを呼んできてくれた人が、口に人差し指を当てて<静かに>のポーズをした。ゆっくりと本堂に入っていくと、数人が座っていた。その人たちがあっちだと言わんばかりに指をさす。何だろうと思って、そちらにそっと近づいていくと、そこには座禅をしている少年の姿があった。

今までに見たことがないような神々しさに身震いするほどの感動を覚えた。ただ座っているだけなのに、なんともいえない透明感があるのだ。

本堂での撮影は禁止されている。しかし、どうしても彼を写真に収めたい。これは自分の欲望だけではなく、撮影しておくべきだと強く思った。神聖な祭壇は写さないので写真を撮らせて欲しいとお願いし、なかば強引に写真を撮る。音を小さくしてシャッターを切ったが、静かな本堂には音が響いてしまう。しまったとこちらは思いつつも、彼はピクリとも動かない。彼のココロはここにないのではないか。抜け殻のようにも見えてくる。そのとき頭をよぎるものがあった。これが仏の姿かもしれないと。自分のようなものは、いくら座っても雑念だらけで、ココロが整うなど至難の技。しかし、澄んだココロの少年の姿は、混じり気のない澄んだ空を見るようだ。

家族に話しを聞くと、彼は7歳。2ヶ月前にこのお寺に出家したおじいちゃんに会うために、家族とトゥクトゥクで6時間もかけて山奥からやってきたそうだ。その大好きだったおじいちゃんが、一緒に住んでいるときに座禅を組む姿をみて、見よう見まねで彼も座禅を始めたという。日々の暮らしのなかでの継続的な実践がなければ、こうした光景は生まれてこない。スリランカ人が祈る姿をたくさん見せてもらったが、その祈りの背後にある物語を教えてもらった気がする。これはこの家族だけのものではないだろう。きっと、他の家庭でも、遠く1000年以上前にもおそらくあった光景なのではないか。時代を超えて堆積されたきた祈りの一端を見せてもらった。巡礼先での祈りは、巡礼者にとっても特別なものだけど、日常のなかにある手垢にまみれた祈りこそが、祈りの本質であるように思える。

座禅する少年にエールと感謝の気持ちをこめて、写真を撮りながらカレンダーに使わせてもらうことを決めた。すでに浅見上人の元にはカレンダーを送ったが、少年のもとには、そろそろ届いただろうか。彼は喜んでくれるだろうか。こんな形で彼にエールを送ることができる自分の境遇に感謝したい。そして、できることなら彼の未来にまで届いて欲しい。君があの時見せてくれた仏の姿を日本の写真家は忘れないことを。

本堂で冥想する少年

少年のおじいさん。ぼくが訪れる2ヶ月前に出家されてお寺で暮らしている
トゥクトゥクに乗り、6時間かけておじいさんに会いにきた家族

このお寺には、日本人の僧侶が浅見上人以外にもう一人いらっしゃった。その方が岩田上人。部屋を訪れたとき、浅見上人が作られたごはんを食べられた後だった。机の周りには日本でみかける市販薬や物が、座っている椅子を中心に円形状に届く範囲に置かれている。体が弱り自力で歩くことが難しいそうだ。つたい歩きがやっと。机の奥にあるベッドには、天井から太いロープがぶら下がっている。日本のように介護ベッドが体を起こしてくれるわけではないから、自力で起きるしかないのだ。

「今日か明日かと思いながら日々過ごしています」ポツポツと話しをされる。

「生きているものすべてに、仏心が宿っています。生きながらにして仏になれるんです」時々、遠くを見ながらそんなことを話される。同じ時間を共有するうちに、少しずつ口数が増えてきた。それにあわせて笑みも浮かぶ。身体機能は衰えてはいるものの、頭は健常者そのもの。いや、ぼくなんかよりも話の展開がなめらかだ。「ぼくは若いころよく勉強ができた。秀才だったんだ」そんな自慢話も出てくるが、それも納得できた。

岩田上人さん 83歳。大阪府豊中市出身、語学が堪能で大学時代には10ヶ国語を話せたそうだ。大学卒業後、銀行員として活躍し、思うところがあって日本山妙法寺に出家された。

ぼくは、人が歩んできた話しを聞くのが好きだ。普通に生きたという人が多いかもしれないが、皆それぞれに物語がある。良くも悪くも、その人しか歩めなかったオリジナルの人生。目の前にいる人の背後に歩んできた道がぼんやりと見えてくる。いいなぁと思う。

ベッドのそばにうちわ太鼓が置かれていた。毎朝、毎晩、本堂では1時間にわたって大太鼓にあわせてうちわ太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えるお勤めが行われる。岩田さんは本堂に移動することができないため、ベッドの上でお勤めされているのだろう。きっと悔しいにちがいない。出家し僧侶として生きるという決意は並々ならぬものがあったに違いない。その僧侶としての基本である朝晩のお勤めができなくなりつつある。ベッドのそばに置かれたうちわ太鼓を見ていると、それが岩田上人の最後の砦のようにも思えてくる。何十年と叩き続けた魂の響きを、心が戻っていける場所をそこに感じておられるのではないか。それを手放すことは、自分の人生を手放すことになってしまう。それほど、うちわ太鼓は大切なのではないか。勝手に想像するが、大きくは間違っていないのではないかと思う。

岩田上人は、自分の最期をここで迎えることを決めておられるように感じた。日本人なら、日本に戻りたいと思ってしまう。しかし、辿ってこられた道の上を最後の住処にするという潔さは、僧侶として生きてこられた美学のようにも思える。長年にわたり多くの方を看取られてきて、やがて自分に訪れるであろう死と向き合う準備をされつつある。僧侶が向き合う死とは一体どのようなものなのか。言葉で聞くことができなかったが、それを岩田上人が暮らす空間のなかに見たように思う。

岩田上人

その晩、浅見上人に作っていただいた男の手料理をいただきながら、話を聞いた。日本山妙法寺の開祖、藤井日達上人は、1885年、熊本県阿蘇の生まれ。さまざまな宗派で仏教を学んだ後、法華経は世界平和を実現する教えだと、平和運動に取り組まれた。世界平和を祈願して世界各地に仏舎利塔を建立され、紛争地帯では平和行進を敢行。実践的な仏教教団として命がけで歩んでこられたそうだ。

スリランカでは、1983年頃から2009年まで、少数派のタミル人が分離独立を目指して、武装闘争を繰り広げた。政府側は仏教徒のシンハラ人、独立を目指すのは、ヒンズー教徒のタミル人。タミル人が多く暮らす最北の町ジャフナで、日本山妙法寺の僧侶は、平和を願いうちわ太鼓を叩きながら歩かれたそうだ。享年32歳の横塚上人もその一人。政府側の攻勢が続き、多くの死者を出し劣勢となったタミル人の怒りは、一人で太鼓を叩きながらジャフナの町を歩く横塚上人に向けられた。日本人とはいえ仏教徒。彼は命の危機にさらされながらも、真摯に平和を祈り南無妙法蓮華経を唱え歩いた。その姿に、市民は少しずつ彼を認め始めていたようだ。しかし、あるとき4人の武装グループに襲われ7発の銃弾に倒れた。うち2発は頭頂部を撃たれていたそうだ。そのことが何を意味しているのか。横塚上人は法華経の教えのひとつである但行礼拝を実践し、銃を構える武装組織に頭を下げたところを撃たれたのだ。仏教の教えとはいえ、銃を持つ相手に頭を下げることなど簡単にできるものではない。火器に非暴力で対峙する。その行動に賛否はあるだろうが、ぼくは平和を願い実践するその姿勢に、生き様という美しさを感じてしまう。信じる教義を貫き命を落とした横塚上人は、同じ殉教でも自らの命と引き換えに無差別に人を殺す目的の自爆テロとは質が全く異なる。日本山妙法寺は、剣道、茶道のように、法華経を極める道とも表現できるような、実践の宗教のようだった。

ゴールを目指して走っていた道すがら軽い気持ちで立ち寄ったお寺。ここで、こんなにもココロが湧き立つ話しを聞かせてもらえるとは思ってもみなかった。浅見上人からは、他にもスリランカのことや、スリランカの仏教事情などいろんなことを教えていただいた。スリランカにきて、知りたかった、聞きたかった、触れたかったことが、この1日に凝縮されたといっても過言ではない。セレンディピティ。この言葉どおり、日本山妙法寺での出会いは、思いがけない幸運に満たされた時間だった。ベッドの上に座り、静かに手を合わす。窓から見える月に額ずきながら、今ここにいられることに感謝した。

翌朝5時30分。ぼくは浅見上人と本堂にいた。二人で朝のお勤めを行う。うちわ太鼓を叩きながら、南無妙法蓮華経を延々と唱える。終了後、外に出て、境内や仏舎利塔を同じように太鼓を叩きながら歩いて周った。朝から声を出し、太鼓をたたくと清々しい。

浅見上人お手製の朝ご飯をいただき、出発の準備にかかる。最後に、岩田上人にご挨拶にあがった。部屋には朝日が横の窓から柔らかく入り込んでいる。岩田上人はそのエネルギーを吸収するかのように、ベッドに座って窓の方を向いていた。昨日よりも幾分元気に見える。なかなか、別れの言葉を切り出せず、話しを聞いていた。もしかすると、スリランカに来ることは、もうないかもしれない。だとすれば、今が一緒に過ごす最後の時間になる。そう思うとやりきれなかった。だけど出発しなければいけない。岩田上人の言葉を少し遮るように「そろそろ出発します。ありがとうございました。お元気で!」と告げた。上人は「そうですか。お元気で」柔和な笑みを浮かべてそう言うと、少し寂しそうに窓の方を向かれた。何を考えておられるのだろう。岩田上人の背後にあるベッドの上の天井から吊るされたロープが代弁するように、ぼくにさよならを告げた。

元気そうでよかった

アサミと聞いて女性だと思っていた浅見上人との出会いだったが、また必ず会いたと思うような自然体で素晴らしく格好いい人だった。このお寺で教えてもらったことは、ぼくの一生の宝だ。そして、自分の未来を示してくれる矢印にも見える。対岸のゴールに到着し、砦の上から仏舎利塔が見えた時、またお会いできますようにと目を閉じ手を合わせた。

スリランカに渡って37年(2019)。ひとの人生は物語に満ちている。
海の向こうにゴールの旧市街が見える。
2004年12月26日、スマトラ沖地震による津波で、スリランカでは3万人を超える人々が亡くられた。仏舎利塔の海側に慰霊碑があった