折りたたみ自転車と列車でスリランカを巡った45日

<ビーチ&フィッシング>

今回のスリランカの旅は、沿岸部や内陸をクネクネと回ったため、それほど海を堪能する旅ではなかった。だけど、どこが印象的だったかと言われると、東海岸のビーチを思い出す。東海岸は1983年から2009年までの間、内戦により一般の出入りは厳しく制限されていた。内戦終結後は、自由に入ることができるようになり、リゾート開発も進んでいるようだが、まだローカルなビーチも残っている。

東海岸のなかでもトリンコマリーのビーチはきれいだと定評がある。泳ぐことはしないので、ぼくが通ったのは朝。東向きのビーチは、朝日を迎えるのに最適だ。宿の前からまっすぐ伸びるビーチへ夜が白み始める前に向かう。靴を脱いで素足で立つと、熱は抜け砂も眠っているようだ。

少し明るくなりかけた夜空には、まだ星たちが瞬いている

水平線の彼方がじんわりと明るくなり、やがて空がゆっくりと色づき始めてくる。朝日を見るのが好きで何度も見てきたが、飽きることはない。新たな始まりを感じ、太陽が出るまでの間は、長く続く地球の生命と交信をするかのように、意識が水平線の先にまで飛んでいくような感覚を覚える。連綿と続く生命の連鎖のなかに今いることに、心地よさを感じ、自分のゆがんだ生命のブロックが整っていくようだ。その時間は、太陽の出現とともに終わりを迎える。スピリチュアルなものを信じるほうではないが、夜が明けていく時間帯には、何か特別な心地よさをぼくは感じている。それは生き物としての感覚なのだろう。

同じ東海岸にあるバティカロアの夜明け前のビーチには、ローカルの人たちの姿が多く見られた。昨晩からここで寝ていたんじゃないかという人たちもいる。ヤシの葉でつくったタープの下で寝転んでいる人もいれば、瞑想をしているのか、ずっと動かない人もいる。それぞれが思い思いに東の空を眺めている。沖には、漁船の姿がある。ここにいる人たちはずっと海を見ながら暮らしてきた人たちなのだろう。太陽が水平線から顔を出してしばらくすると、沖で操業していた小さな漁船が浜辺へと近づいてくる。こんな浅瀬に漁場があるのかと思っていたら、速度をあげて勢いよく浜に向かってくるのだ。吃水(きっすい)ギリギリのところで船外機をさっと持ち上げ、惰性で浜に乗り上げた。周りにいた人たちや、どこからか人が集まってきて、船を波が来ない場所まで、道具も使わず自力で引き上げていく。そして、船内にたまっている魚を覗き込みながら何やら話をしている。漁船が丘にあがってくる度に同じことが行われる。これは他の浜辺でも同じだった。そこそこ大きめの漁船も同様に、マンパワーで浜の奥まで引き上げる。なんと非効率なことをと思うけれど、自然も景観も壊さないという点では、素晴らしい。もっと頭を使えよと、合理的な考え方を持ち出すよりも、なぜそうしているのか、相手の視点で見てみると、また違ったものが見えてくるのかもしれない。

太陽はまだ昇ってこない
 海をみつめたまま、男性は動かなかった。それぞれの朝がある
加速をつけて勢いよく浜に打ち上がってきた
どこからか集まってきた人たちが、漁船を引き上げていく

東海岸南部にあるアルガムベイは、サーファーの間では世界的に有名だそうだ。その他にも、ウェリガマやミリッサなどの南海岸やヒッカドゥワなどの南西海岸には、リゾートやビーチが多い。見ていると、外国人だけではなく、ローカルサーファーが沖で波乗りをしている。それを丘で子供たちが羨ましそうに眺めている。夕暮れになると海からあがってきたサーファーが、自分のトゥクトゥクの屋根にサーフボードをくくりつけて帰っていく。地元の人たちが遊ぶ海でツーリストも遊ぶ光景に心が和む。ツーリストのためのビーチではないのだ。

トゥクトゥクの上にサーフボードを乗せている。スリランカオリジナルの風景だろうか
サーフィンの帰り道、橋の上で夕日を眺める若者たち

南海岸のウェリガマ周辺では、ストルトフィッシングも有名。水際から少し海に入ったところに木の棒を打ちこみ、簡易の腰掛をつくり、そこに座って糸を垂らす漁法。見てみたいとは思っていたが、その日はあいにくの雨。釣り人の姿がない風景を撮影していると、近くの控え室のような小屋から釣り人のような人たちがでてきた。少し様子が変で、彼らは釣りをしにきたように見えない。その人たちが出てくるのに合わせて、係りの人っぽい人も出てきた。伝統的なストルトフィッシングが、今は観光ビジネスになっている。

写真を撮るとお金を支払うことになる。しかも、写る人数に合わせて金額が変わることもあるという。そんな写真は撮りたくもないので足早に失礼した。他の場所でもストルトフィッシング撮影会をしていたが、大型バスからぞろぞろと降りてきたアジアの観光客が楽しんでいた。地元の人もそれで仕事になるなら魚釣りをするより、よっぽど実入りはいいのだろう。日常の素朴な姿を見たいと旅をしているのはこちらの勝手だ。彼らにとっては、その新しいビジネスも日常なのに、こちらが勝手に決めてしまっている。イメージを作りすぎているのだろう。まったく情報がないよりもあったほうが、旅は充実するけれど、イメージを作りすぎてしまうのはどうか。そんなことを考えた出来事でもあった。

観光用になってしまったストルトフィッシング
荒波のなか果敢に海に入っていく釣り人。これが結構釣れるのだ。釣れた魚はビーチの砂浜に穴を掘って埋めておき、あとで掘り出す
岩ガキを取っている老人。瓶のなかにはたくさんの牡蠣がはいっていたが、ぼくが食べたらおそらく瞬殺だと思う。あまりきれいな海ではなかったから
怖がる子どもの手を取って波と戯れていた