スファックスのメディナを歩きながら
僕は自分の感覚が微かな違和感を
捉えているのに気づいた。

朝が早すぎたのだろうか。

そう思い直して路地をうろうろしてみたが
やはり何かが決定的に違っていた。

一ヶ月近くチュニジアを旅し
各地のスークを見て回るうちに
僕は知らず知らずのうちに市場が放つ
「呼吸」のようなものを読み取れるように
なっていたのかもしれない。

鮮魚エリアへ向かうと、その予感は的中した。
建物の入り口の柵が閉じられている。

今日は、市場の休日だったのだ。

辺りを見渡せば、わずかに開店準備を
始めている店もあった。

けれど、静まり返った空間に
ポツンと灯りを灯していても
それは僕の知る「市場」ではなかった。

溢れんばかりの商品が通路までせり出し
幾重にも重なる買い物客の波があり
そこかしこで威勢のいい声がぶつかり合う。

あの混沌とした高揚感をもたらす
装置があって初めて
そこは市場として機能する。

それがない場所は、ただゴミが散らばる
薄汚れた通路に過ぎないのだ。

風景を劇的に変えるのは
いつだって「人の存在」だ。

僕は、人が放つその圧倒的な存在感が
たまらなく好きだ。
そこにある風景を、一瞬にして「物語」へと
変えてしまう。

それは、そこに「いのちの熱」を
感じるからだろう。

僕は昔から、ただ美しいだけの風景写真には
あまり興味が湧かなかった。

どれほど壮大な景色であっても、
そこに人が一人、ポツンとでも写り込んでいる
写真にばかり目がいく。

その人が放つ微かな熱こそが
生きてきた証であり
その立ち姿や何気ない動きの中に
その人が背負ってきた長い人生の断片が
透けて見えるような気がするからだ。

人は、動くことを通じて、
らの人生を体現していく。

静まり返ったスファックスの市場の片隅に座り
僕はそんなことを考えていた。

人間とは、ただそこに在るだけでなく、
動き、関わり、熱を発し続けることで、
初めて自分自身の物語を紡いでいく
生き物なのかもしれない。

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