​JICA協力隊の山本さんの活動2日目の同行。
青少年の家は、日本でいう学童保育のような施設で
対象は中学生から大学生くらいまでだそうだ。
学校を辞めてしまった若者もここにやってきたりする。

山本さんは、チュニジアの国民性なのかどうかは
わからないと前置きした上で
最後まで成し遂げることに
あまり重きを置かない傾向があるのではと
感じているそうだ。

その背景には、いつも「インシャアッラー(神が望むなら)」
という言葉が、祈りのように寄り添う。
何かができるかどうか、誰かに会えるかどうか。
そのすべては、人間の意志を超えた「神の望み」に
委ねられているのだという。

僕たちの生きる世界では
自らの手で何かを掴み取るためには
いい時ばかりではなく
むしろ苦しい時こそ踏ん張って
一歩ずつ近づくことが尊いと教えられてきた。

けれど、イスラムの教えを根底に持つ彼らの価値観は
僕たちのそれとは、違う場所にあるように思える。

その違いを尊重せずに
自分たちの物差しだけで動いてしまえば
本当の意味で彼らの心に触れることは
できないのではないだろうか。

僕はかつて、サブサハラの地で活動する
多くの人たちに出会ってきた。

欧米からやってくるNGOの中には
自分たちの価値観をそのまま持ち込み
目標が達成された、もしくは実現が難しいと判断すると
潮が引くように即座に撤退してしまう団体が多いそう。
そのたびに翻弄されるのは
いつもその土地に暮らす地域の人々だった。

努力して成果を出すことが「正しい」と
信じる僕たちの思想と
神の意志にすべてを委ねる彼らの思想。
それは、ときには相容れないものかもしれない。

けれど、日本の真っ当なNGOが大切にしようとしているのは
目標の達成よりも前に、「主役は誰か」と問い直すことだ。

自分たちが去ったあとも、そこに住む人々が仕組みを使って
暮らしを安定させていけること、少なくともいなくなったことで
迷惑がかからないように考えて行動すると聞いたこともある。

それは、効率を求める世界からは
とても遠回りなことのように見えるけれど
何よりも温かな誠実さに満ちている。

どちらが正しいのか、その答えを出すことは、
きっと誰にもできない。

けれど、僕は思う。
どのような形であれ、支援というものは、
そこに生きる人々が主役であってほしいと。

カイロアンの若者たちの心の拠り所を作ろうと、
この未知なる価値観の中で奮闘している山本さん。
その背中を見つめながら、
僕は、この地で紡がれる新しい物語の行方が
どうなろうと、僕は山本さんの真摯な姿勢を応援したい。

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