
今日はスース最後の日
明日はカイロアンに移動する。
初めてメディナを囲む城壁を見たときは
あまりの広大さに度肝を抜かれたが
今はどの筋を行けばどこへ辿り着くのか、
地図を見なくてもわかるようになった。
ラマダンにも少しずつ慣れてきた。
スーク(市場)に行けば、
野菜や果物、魚などの生鮮食品は豊富にある。
香辛料や甘すぎるほと甘いお菓子も販売されている。
閉まっているのが、カフェやレストラン。
調理を施して振る舞われるお店だ。


イフタール前の6時には、店はほぼ閉まる。
カフェは夜になると、オープンし始める。
ラマダン中は、家でイフタールを食べることが多いから
お腹を満たしてから、カフェで友人、知人と
コーヒーを飲みながら、タバコを吸い、談笑する。
外で食事をする人が少ないからか、
レストランは閉まったままのところがほとんど。
そのため、旅行者は食べ物にありつくのに
ハードルが上がってしまう。
スマホの歩数計を確認すると
1日平均20,000歩以上は歩いている。
肩からカメラを下げ、背中にリュックを背負う。
8kgほどの荷物を持ちながら、被写体と対峙する。

関係を作ろうとするが、うまくいかないことや
拒否されることもある。
それを一つ一つ繰り返しながら、街を歩く。
パンとオレンジだけでは、
削られていく筋肉と体力を補うことはできない。
やがて旅を続けるための熱量が落ち
気力が萎んでいく。
昨晩、意を決して(大袈裟かな)二千円を超える
この国では少し贅沢なレストランに行ってみた。
運ばれてきたのは、前菜からメイン
デザートに至るまでの
溢れんばかりの料理だった。
瑞々しい生野菜、胃に染み渡る温かなスープ
そして柔らかなチキン。
この数日間、身体が渇望していたものすべてが
そこにあった。
一口運ぶごとに、うまいと心で叫ぶ。
その声は、細胞のひとつひとつが歓喜しているようだ。
眠っていた力が身体の奥底から
湧き上がってくるのを感じる。
僕のこうした体験も含めて
ラマダンはあるのだろうか。

これほどまでに人々の心を支配し
街の表情を一変させてしまうラマダン。
それが今、世界中のイスラム教徒の間で
同時に行われているのだ。
その連帯の巨大さと
個人の意思を超えた宗教の根深さに
畏怖に近い感情を抱かずにはいられなかった。
それは、ある種の「恐怖」と言ってもいいほどの
圧倒的な意志の塊だ。
日本にいて、この感覚を味わうことはできない。

かつての大日本帝国という時代があった。
目に見えない大きな意志の塊に
国民全体が突き動かされていた。
ひとつの大きな「正解」に塗り潰されていく世界の中で
僕は今「多様性」という言葉の重みを
単なる流行語ではなく
自分らしく生きるための切実なものとして感じ始めている。
イフタールのご馳走を心待ちにしているネコ