アルー・イトロ・オライビー 〜 メンディオンドア 28km
Aroue-Ithorots-olhaïby 〜 Mendiondoua 28km

5:00起床。
そっと部屋を出て
いつものように出発の準備をする。
そのとき、別の部屋から出てくる音がした。
シンガポールからやってきている女の子だった。
数日前から何度か見かけていたが
初めての会話となる。

彼女は数年前にぼくがこれから向かう
フランス人の道を歩いたそうで、
今回ル・ピュイからサンジャンまでを歩いているそうだ。
アジア人独特の細い体でよくがんばっている。

朝一番、外に出ると霧が立ち込めていた。
この霧が太陽が出ているはずの時間を過ぎても晴れない。
歩いているにはラッキー。写真にとってはどうかというところ。

それでも風景の写真を撮りながら歩いていると
ヤマ!と背後から声が。
7人の集団。どんな集団だろうと思ったが、
それぞれがバラバラの集団だった。

10日以上前から会う人も。言葉はわからなくても歩くという単純なことで結びつく。

歩くのが速いから一気に追いつかれる。
その後、写真を撮ったり撮られたり。
黙々と歩いたり、話したり。
休憩できそうな所が見えてきたので、
そこで小休止。

日本人の感覚と違って休憩が長い。
そこで、思い切って、明日のサンジャンの予約を
フランス人のアランにお願いした。
快く引き受けてくれて電話。

身長190cm以上あるアラン、フランス人。任せき!と宿の予約を引き受けてくれた。アランはフランス語のみ。ぼくは英語のみ。それでもなんとかなる。
ドミニカのアルベルト。明日のGITEは同じかも。4月には日本に2週間旅行に行ったとか。

すると、それを聞いていた
ドミニカのアルベルトが乗っかってくる。
ドレッドヘアのおばちゃんだ。

1軒目で無事にOKがもらえて大喜び。
ぼくの思い過ごしもあるだろうけど、
フランスでも地域によってか、
オーナーさんによって、
対応が違うような印象を受ける。

会話の早い段階で
ジャポネという単語をよく耳にする。
国籍の確認なのだろうか。
昨日が散々だったのでとにありがたい。

そこで、別の夫妻が合流。
ヤマ!と声をかけてもらえる。
ぼくの苗字はウエヤマだけど、
ヤマで統一して本当に良かった。
みんなにそう呼んでもらえる。

ありがとうというとき、
いつも合掌のポーズをするのだが
それがめずらしいらしく、
いろいろと突っ込んでくれる。
全くフランス語はできないけれど、
ヤマ、フォト、ジャポネで
かなり優遇してもらえている。
キーワードは、コミュニケーションでも
大切なのだとあらためて感じる。
ありがたい限りだ。

ここで撮ったらどうだ。ここはどうだ。
ここの人に声を掛けてやるよ。
ありがたいことに
いろいろとアドバイスをしてくれる。

そして、今歩いているバスクという地域の事情について
いろいろと教えてくれた。

バスク地方に入ると、
道路標識に文字が2言語で書かれている。
上がフランス語。下がバスク語。
フランス人にバスク語はほぼ理解ができないらしい。
数十年前に独立運動があり、テロがあったことも
学校で学んだように思う。

言語は、その地域の最も重要かつ伝統的なものだ。
日本で考えるとわかりやすい。
どの地方に行っても、道路標識は同じ形式。
おみやげ同じようなもの。
景色も大きくは変わっていかない。

しかし、言語だけは変わる。
ぼくが住む大阪府でも地域よって言葉は
微妙に違ってくる。
それが200kmくらい離れた岡山や名古屋に行くと
方言がかなり違う。
東北や沖縄に行くと、言葉も全然変わる。

言葉は強い。
その地域色を最後まで貫く伝統だ。
最後の最後まで変わらないのは
きっと言葉だとあらためて思う。

その昔、アラスカでは原住民のインディオの子供が
学校で彼らの言語を話すと
統治下にあったアメリカ人教師から
石鹸で口を洗わされたという。
徹底的に民族の言語を捨てるように教育され
英語という言語に染められていった。

かつて植民地と呼ばれた場所は
多かれ少なかれすべてそうだ。
言葉というアイデンティティが
支配する側には邪魔でしょうがなかった。
支配する側からすれば
言葉を同じにできればその地域を制することが
容易だと考えたのかもしれない。

言葉は、記号という要素だけでなく、
響きを持つ。
その響きによって伝わるものも少なからず
あるのだとぼくは思っている。

かつてバスクの人たちが、幾度にもわたり
独立運動を起こしたが
今は平和が保たれている。
そして、自分たちの言語を大切にしていることを
ぼくはうれしく思う。

自分たちの言葉を奪われたときの喪失感は
半端ではない。
言葉は使いやすいように
使う人たちのなかで変化する。
融合し変わってもいく。
ただ、それは内からの自然な変化だ。

老人が、今の子供は・・・というのは
いつの時代でもそうなのだろう。
言葉は生きているのだから変わっていく。
しかし、その言葉に帰属する人たちの気持ちは
これっぽちも変わらないのだ。
そこが大事だと思う。

今日、バスクであった出来事は、
ここでは書かないけれど
それぞれがそれぞれであることを
尊重できる社会であって欲しいと思う。

バスクのおうち。白い壁にワイン色の扉。

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