折りたたみ自転車と列車でスリランカを巡った45日

<カッタンクディ>

2019年4月21日、スリランカのキリスト教会と高級ホテルなど8所で自爆テロが発生。死者は250人を超えた。スリランカに出発する3ヶ月前のことだった。犯行はスリランカ人のイスラム過激派組織。首謀者はザフラン・ハシム容疑者。カッタンクディは、彼が生まれ育った町であり、過激派組織のアジトもこの町にあった。テロ事件そのものにそれほど興味はなかったが、仏教国とも言われるスリランカでなぜ、イスラム過激派組織が生まれたのか。その背景となる町を見てみたいと思った。

スリランカには約200万人のイスラム教徒が住んでいる。全人口の10%程度にすぎない。その多くが東海岸に暮らす。東海岸の町バティカロアから10kmほど南に下ったところにカッタンクディはある。自転車で幹線道路を南下していくと道路をまたぐ大きなゲートが現れた。そこには、ようこそカッタクンディヘ、と、英語、シンハラ語、タミル語、アラビア語で書かれている。検問があるわけではなく片道2車線の道は普通につながっている。そこをくぐりカッタンクディに入った。緊張が少し高まる。人口約5万人の町だけど、ハシム容疑者の生まれ育った町でもあり興味があった。

このゲートの向こうがカッタンクディ。

カッタンクディで向かったのは「ミーア・グランド・ジュンマ・マスジド」というモスク。むやみやたらに走り回るより、とりえあえず目指すところが欲しくて、ネットでモスクで調べてヒットしたのがここだった。この町に入ってみて、イスラム教徒が多いというのが最初の印象だった。イスラム教徒特有のつばのない小さな帽子をかぶっている人やヒゲをたくわえている人が多い。女性はマントのようなものをまとい顔だけを出しているヒジャブという衣装を着ている。

目指すモスクが見えてきた。ゆっくりと慎重に敷地内に入っていく。一人の男性が窓際でイスに座って佇んでいたので声をかけてみた。スリランカの宗教に興味があって自転車で旅をしていると伝えると、モスクの中に招き入れてくれた。外は暑いがモスクのなかはひんやりとしている。祈っている人が数人いたので、邪魔をしないよう静かに入っていった。正面の壁をちらっと見たとき目を疑うような光景が広がっていた。正面の壁、そして柱に機関銃で撃たれたような跡が無数にある。拳銃で開くような小さな穴ではない。壁を破壊するような威力のある火器の跡だ。その男性に聞くと、1990年8月3日、LTTE(タミルイーラムの虎)に襲撃されたときの跡だそうだ。当時、スリランカは分離独立を目指してタミル人の武装組織LTTEがゲリラ活動を展開し、内戦中だった。当時、政府サイドは仏教徒、分離独立を目指したLTTEはタミル人でヒンズー教徒。そこにイスラム教徒は関係ないように思える。しかし、イスラム教徒が、政府側に加担しているのではないかという疑惑のもと、イスラム教徒が営む商店が襲撃にあったり、暴力を振るわれるなどの被害が続出。そうした事件がエスカレートするなか、金曜日のイシャの祈りを捧げるモスクが襲われたそうだ。町の4つのモスクが狙われ、147人が亡くなられた。襲撃された「フセイニヤ」というモスクにも行ってみた。そこにも痛ましい弾痕の跡が残されている。近くにいたおじさんに聞くと自分の兄弟も殺されたそうだ。

LTTEの兵士たちは、殺した相手に恨みがあったわけではないだろう。個々の人々ではなく、イスラム教徒に対する怒り、もしくは作戦上の理由で殺戮を行った。神聖な祈りを捧げている無抵抗な人々を背後から重火器で襲う。人間は人間をいとも簡単に殺めることができてしまうのだ。本当に恐ろしい。

命拾いしたイスラム教徒は、殺されないでよかったというよりも、仲間や家族を殺された怒りのほうが強かったのではないだろうか。その怒りの感情は簡単に消えるものではない。表面上は押さえ込んでいても、水面下ではどうなっているのか。フレンドリーで親切な人々の背後には、一筋縄ではいかない民族や宗教というアイデンティティーの戦いの歴史がある。モスクの壁にある星の数ほどの痕は、ぼくにそう訴えているようだった。

ミーア・グランド・ジュンマ・マスジド
手足や口をすすぎ清めてから礼拝する場所に入る

一人静かに礼拝をする青年。その先の壁には無数の弾の跡がある

夕方、礼拝の始まる少し前の時間に再び最初に行ったモスクをのぞいてみた。最初と違いすぐに招き入れてもらえることができた。モスクに訪れた人たちから教えてもらったが、カッタンクディの住民は100%イスラム教徒だそうだ。そのことに彼らは誇りを持っている。しかし、スリランカの中ではイスラム教徒はマイノリティなのだ。

想像してみる。カッタンクディで育った子供が、あるとき町から出てみると、自分たちの当たり前がどうやら当たり前ではないことに気づく。しかも、この町の外では、イスラム教徒がとても少ない。そう感じ始めたときの動揺はあるのかもしれない。その心の揺れに経済的な要素などで、さらに揺れが大きくなると、倒れてしまわないように拠り所となるものを必要以上に巨大化させてしまう、そんなことも考えられる。

仏教徒であることを名乗った上で、一緒にお祈りをさせてもらう。ぼくはコーランを知らないし、教義も知らない。見よう見まねで覚えた作法で一緒に祈ると、少し距離が近づくような気がした。そして、彼らが一体何を思って祈っているのだろうかと考えたとき、自分や家族が幸せでありますように、という単純な願いではないだろうか。それは、ぼくと変わらないことであり、おそらくすべての人の願いでもあるはずだ。信じるものが違うと、認め合うことはできないのだろうか。決して簡単なことではないかもしれないが、小さな島のなかで4つの宗教がひしめき合うスリランカには、トラブルもあるけれど、ヒントもあるように思えてくる。

モスクを出て夜の町を自転車で宿に戻る時、店先から何人かが手を振ってくれた。きっとモスクで一緒にお祈りをした人たちだろう。多くの人はイスラム教に寄り添いながら平和的な生き方をしている。緊張しながら入った町は、心が温かくなる町としてぼくの心に刻まれている。

 同時に襲撃されたフセイニヤモスク
柱や壁に弾痕の跡がある
悲劇を風化させない意味で壁の一面だけ残されているのだろう
兄弟を殺されたと教えてくれたおじさんたち
ミシンをふむ職人
この男性と話しがはずみ、カヌーに乗せてもらった
思い出深い綺麗な夕景になった
昼間に行ったモスクを再度訪れて一緒にお祈りをした
時間になると、人が集まってくる
弾痕の跡が痛々しい